インターステラーと2001年宇宙の旅の相似点

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【ネタバレ】記事です。

 

土星の近くにワームホールが発見された。我々はそこに行く」

 

この台詞の時点で私の脳裏には『2001年宇宙の旅』の木星モノリスがよぎりました。

 

公開初日に『インターステラー』を観てきました。事前知識はほぼゼロでした。なにせ公開初日って知らなかったくらいです(笑)。帰りの電車の中で検索してるときに知りました。数週間前に一度だけYouTubeか何かで予告編を見かけて、牧場の一軒家と宇宙服のマシューマコノヒーが交互に映るから「なんだこれは?Interstellarってなんだ?」くらいの感想だったのですが、なんか荘厳な空気だけは心に引っ掛かってたんでしょうね。で、公開前日に誰かのブログで「クリストファーノーラン監督の最新作は壮大なSF超大作インターステラーだ」みたいな触れ込みを見かけて、上映スケジュールを調べるとTOHOシネマズ日本橋のTCXスクリーンだったので、これは観ておくか、と。これが大正解でした。

 

なんでこんな話をつらつらと書くのか。この映画を観ると、偶然の出来事のように見えても、実は意味や因果があって全てはつながってるのかも。なんて空想がしたくなるのです。偶然に触れた予告編やブログの記事や、一瞬しか見てない予告編の映像のパワーに惹かれ、そしてなんと公開初日に映画館まで私は足を運びました。これは運命だったのではいなか、みたいな。完全にノーランの術中に嵌まってますね。

 

宇宙やSFに関する事前知識はあったほうが確実に面白い

初見のオドロキや感動は何にも優るので、あまり予備知識は入れないほうが良いと思います。ただし、映画の内容ではなくて、一般論としての宇宙科学や、過去のSF映画に関する知識は、あったほうが絶対に楽しめます。たしかに「親子の愛」が重要なファクターであり物語の主題にはなっていますが、言うても映画をエンターテインメントとして成立させるための要素であり、これはこれで非常に重要なことであり成功していますが、この映画の核心というか、芸術作品としての作者の創作動機はやはり「宇宙へのロマンと畏怖」だと思います。

 

ブラックホールワームホールウラシマ効果。重力を作るために回転する宇宙ステーション。運動量保存の法則。モールス信号。はい、これはもう理系男子のための映画ですね。私も特別詳しいわけではないので、自分でイチから説明することは難しいのですが、映画の中で登場人物の台詞はチョロっと触れるだけなので、それを聞いただけで「ああ、あれのことね」とすぐに思い出せるくらいでないと、テンポ感についていけません。偏見かもしれませんが、女性の方は頭上に「?」がついてる人が多かったと予測してます。そんな細かいこと気にさせないくらいドラマもアクションもよくできてるので、そこまで問題にはなりませんが、3時間の超大作でそれに見合った感動ができるか、といえば問題です。アメリカにくらべて日本ではSFコンテンツがあまり普及してないし、作り手もそこまでお金をかけてないので、作り手が前提としてる予備知識には大きく差があると思います。

 

そして過去の映画の知識。日本は映画を軽視してると思います。否、軽視は言い過ぎでした。でも、テレビドラマのスピンオフ物と、アニメに比重を掛けすぎてると思います。それが日本市場の求める物であり、マーケティングから導かれた結論なので、どうすることもできないですが、いちおう総合芸術と呼ばれる映画について、絵画や音楽や文学や演劇といった他の芸術と同様に、過去の名作は抑えておきたいところです。観客の知識レベル(知能ではなくあくまで知識)が低いために、作り手が忍ばせた仕掛けやギミックがほとんど機能しなくなって、いわゆるオマージュという表現が、一部のコアな映画ファンにしか伝わらない。寂しい話だと思います。なお元ネタが鉄板で面白いので、オマージュも単体で十分鑑賞に堪え得るものにできます。そこから深読みしたい場合のみ問題になります。

 

このエントリーでは私が一番感動したポイントを書きます。それは、この映画がキューブリックの『2001年宇宙の旅』に真っ向勝負していることでした。以下は本格的にネタバレになります。

 

 

インターステラー2001年宇宙の旅の相似点

このブログエントリーの序盤にも書きましたが、「土星ワームホール」というシチュエーションがすでに「木星モノリス」のオマージュです。ていうか私はちょっと吹き出しそうになった。木星にしたらそのまますぎるから土星にした、くらいではないでしょうか。

 

で、映画のクライマックス。マン博士が母艦へ向かうあたりから2001年ムードが濃厚になります。というかアクションシーンの違いこそあれ、ほとんど同じ筋書きで物語が進行します。これこそがオマージュだよ!リメイクであり再解釈だよ!私は感動と興奮で涙がちょちょぎれでした。

 

母艦に入れてもらえないマン博士

クーパー「自動ドッキングを無効にしろ」

TARS「もうやってる」

クーパー「…(声にならない唸り)…ナイス!」

痺れました。2001年でのボーマン博士とHALの遣り取りがこんな形で昇華されるとは。これ、コンピュータが自分の意思でハッチを閉じてますからね。それが暴走でなくて、人間とのポジティブな共同作業として行われていることに感銘を受けました。

 

ハッチ爆破で吹き飛ぶマン博士

2001年のときは上手く行ったのにね。。。現実はこんなものでしょう。ただあそこまで派手に吹き飛ばす威力があったのかは疑問ですが。もっと地味に飛ばされるんじゃないかしら。この直後に控える回転ドッキングのための、映画としての見せ場のための爆発ですね。あんまり地味に飛ばされたら、あの二人だと助けにいくか議論になりそうだし、それくらいなら完膚なきまでに吹き飛んだ方が好都合です。誤解のなきよう書いておきますが、エンターテイメントのためならこの程度の脚色は良いと私は思っています。

開けてもせいぜい台風程度の風がくるくらいだと思います。というか空気が全部抜けちゃえば余裕で入れます。マン博士がもうちょっと冷静だったなら、ハッチを開ける前にロープとかで身体を結びつけて、最初の突風さえしのげば母艦に入れたでしょう。マン博士はボーマン博士と違って宇宙服(ヘルメット)を着てるのだから時間には余裕があります。私は宇宙科学にそこまで詳しくないので、このそんなに風は強くないという想定は間違ってるかもしれませんが。

 

常規を逸した回転ドッキング

2001年で使ったハッチの強制オープンはマン博士によって見事に玉砕したので、物語の演出上、今回は別の方法を採ります。映像は格好良いです。ここでも人間とコンピュータが共同作業してて良いです。映像は全然ちがうけど、有り得ないレベルの困難な状況で母艦に入る、というプロットはそっくり踏襲しました。

さらにもっと言えば、そもそも「回転する母船に宇宙船が回転を合わせてドッキングする」というシチュエンーションそのものが、そのまま2001年の序盤で回転する宇宙ステーションにスペーシャトルが到着するシーンへのオマージュですよね。あちらでは優雅なクラシック音楽に合わせて和やかに展開していきますが、今作ではぐっと回転スピードが上がって、それがまるで2001年の公開から50年近く経ち世界のスピードと複雑度が目まぐるしいほどに上がった現在を示しているようで私の胸は躍っていました。

 

 ブラックホールに落ちていくクーパー

これは、言わずもがなでしょう。2001年を観たことがある、それに思い入れがある人だったら、興奮せずにはいられません。1968年に当時としては画期的だった特殊効果を用いたサイケデリックでショッキングな映像。ガツンとくる音楽。私も数年前に幸運にも銀座にある松竹の大きな劇場でリバイバル公開を観る機会がありましたが、そのときでも巨大スクリーンいっぱいの映像に大興奮しました。それが2014年ではどう解釈されて描かれるのか。どんどん高まります。クーパーの乗る子機が分離して境界線へ落ちていく段階でSFファンは心の中で「キター!」って叫んでいたはずです。

船に乗ってる時点で、クーパーの顔を何度も正面からアップにするのは明らかに2001年を意識していました。構図がそっくりです。ちなみに私が一度だけ見かけた予告編で、特に印象に残っていたのがこの場面でした。なんとなく感じ取った荘厳な空気が、実は2001年のオマージュ部分だったという、それは印象に残って当然だし、ストーリーを知らなくても心に引っ掛かってたのだから、純粋に映像そのものが持つ力の証明でもあります。ノーランの見せ方や腕前は本当に力がありますね。

そして問題の光がブワーと流れてくる映像も出てきます。まあそれは程よく2014年的なセンスにコンバートされてましたが、このまま続けてもあまり新しさはありません。どうするのかと思ったら、ここでまさかのコクピット射出。映画冒頭の悪夢から数えれば実に3回目の同じシチュエーション。この映画は本当に伏線とか回想の使い方が上手いです。

この後でてくる5次元を3次元モデルに置き換えた映像も素晴らしいですが、ここについては2001年のトレースを意識してるとは考えにくいので、いったん飛ばします。

 

 白い部屋で年老いたマーフに再開するクーパー

個人的にはここも2001年のリメイクだと思います。まさか白い部屋で若き主人公が命の最期を見つめる場面まで再現されるとは思いませんでしたから、とても感銘を受けました。劇場の他のお客さんは父と娘の再会に感動していたかもしれませんが、私は2001年のあんなに無機質で不気味なシーンが、こんなにも有機的で心穏やかなシーンに昇華されたことに驚き、感動の涙を流しました。

見つめる対象は年老いた自分から年老いた娘に変わりました。でも娘なんて自分みたいなものです。DNA的には半分自分ですし。2001年ではまったく理解できない状況下で、ただ孤独に死を待つだけの年老いた自分の姿を見ていましたが、今作ではきちんと理解できる状況下で、幸せに囲まれながら死にゆく年老いた自分の娘を見る。2001年ではまったくの孤独でしたが、今作では沢山の大切な人たちに看取られる。 

 

リメイクと深読み

以上、私が感じた、『インターステラー』と『2001年宇宙の旅』の相似点でした。いかがでしょうか。過去の名作をきちんと辿りながら、つまり構造としてはまったくの相似形でありながら、現代の解釈を加えて再構成することでまったく異なる結末や感想を得られるという、とても良いリメイクになっていると思います。

そして、同時にこれが意味するのは、映画鑑賞には過去の映画を知っているほうが有利な場合があるという事実です。当たり前ですが『2001年宇宙の旅』を事前に観ておかなければ、この深読みはできません。深読みだけが唯一の正解とは言いませんが、作り手の意図を受け取る手段として、深読みできるに超したことはないですよね。